こんにちは、ぐっさんです。
僕が生まれ育った福岡は、鎌倉時代、当時大陸を支配していた元の侵攻の二度(文永の役・弘安の役)受けた地です。なので、元寇防塁やその他の史跡が今も各地に残っています。
元寇と言えば、日本史の教科書に載っている、この蒙古襲来絵詞ですが、ここに描かれている場所も実は福岡の鳥飼という場所です。
元軍が陣を置いた祖原公園
今回僕が訪れたのは、この蒙古襲来絵詞の場所から1キロほど離れた場所にある祖原公園です。
高さ33mの小高い丘のような公園で、この周辺は最初の侵攻である文永の役(1274年)の際に戦場となり、祖原公園には元軍の陣が置かれたそうです。
公園の案内板はこんな感じです。
周辺にちょっとした遊具があり、その他は木々で囲まれてます。一番上まで登るとちょっとした広場があります。
大きな石碑があります
祖原公園には入り口(案内版の右端)あたりと頂上あたりに石碑があります。
入り口には「元寇遺跡」と書かれた石碑。そして、この石碑の右後ろあたりには五穀神と書かれた石碑も。
この石碑は明治時代に建てられたようですが、どういった理由でここにあるのかはわかりませんでした。五穀豊穣を願うなにかがあったのかもしれません。
ここから頂上まではスロープ状になっていて、緩やかに登っていきます。以前はスロープもなく暗い感じの公園だったんですが、数年前に整備されて、だいぶ訪れやすくなったように思います。
頂上付近にたどり着くと、元寇麁原(そはら)戦場という石碑が見えます。
石碑の裏には、
この地麁原山は 初度の元寇文永十一年十月二十日(一二七四)に 早良川から百道にかけて上陸した敵の有力な一部隊の本陣なった。敵は軍旗をなびかし六鼓やどらをならして気勢をあげ 目前に展開する 鳥飼 赤坂(福岡城裏) 別府 荒江で 鉄炮(てつはう)を放つなどして わが郷土 肥前 肥後の将兵とはげしく戦った。そのことは肥後の竹崎季長の蒙古襲来絵詞や八幡大菩薩愚童訓に見えている。なお 博多湾に浮かぶ能古 志賀島や西戸崎の海陸は 弘安四年(一二八一)再度の役に 東路軍が わが軍の猛攻をうけて ついに壱岐へ退去するにいたった古戦場である。
昭和四十九年十一月
題字揮毫 福岡市長 近藤一馬
石田清 寄贈
と記されていました。
ここで激しい交戦があったこと。そのことが「蒙古襲来絵詞」や「八幡愚童訓」に書かれていること。そして、能古島や志賀島、西戸崎も弘安の役の際に戦場になったと書かれています。
蒙古襲来絵詞については、上にも載せたように日本史の教科書にあったので知っていましたが、八幡愚童訓は初めて聞きました。しかし、八幡愚童訓はどうやら史実ではないようで、信憑性に疑問があるとのこと。でも機会あったらどんなものか見てみたいと思います。
頂上からの展望は〇
石碑から数メートル上がったところが頂上になります。
頂上は見晴らしが良く、福岡市の北側が見渡せます。左側には福岡タワー、右側には少し隠れ気味ですがヤフオクドームも見えます。
鎌倉時代は周りに何もなかったでしょうから、陣を置くのに最適な場所だったんでしょうね。
せっかく福岡に住んでいるので、これからは福岡の歴史なども紹介していきたいと思います。
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